映画「新渡戸稲造の夢」上映会に行ってきました

和泉 薫

 8月の初め、道民カレッジ主催のドキュメンタリー映画「新渡戸稲造の夢」上映会に行ってきました。というのも1993年~1994年にかけて文科省の在外研究経費で、カナダ・バンクーバーのUBC に滞在していた時、UBC内に1959年~1960年にかけて造園された新渡戸記念公園でよくランチタイムを過ごし留学のストレスを癒しておりました。
 この庭園は北米に所在する日本庭園の中でも高く評価されているものの一つだそうです。「願はくは われ太平洋の橋とならん」という志のもと懸け橋としての功績を積んだ新渡戸稲造が、1933年のカナダでの太平洋問題調査委員会に参加後、BC州のビクトリアで客死したため、その功績を称える庭園がUBC内に造られたのだそうです。
 その功績の話も映画中にあるかと思っていたのですが、あに諮らんやもっとすごい事を札幌の地で行っていたことのドキュメンタリー映画でした。札幌市南4条東4丁目の「新渡戸稲造記念公園」の一角にブロンズ像に新戸部稲造・萬里子先生と銘うたれたお二人の胸像が彫り込まれています。
 公園は新渡戸夫妻が1894年に創建した「遠友夜学校」の跡地です。教育制度が未整備で、小学校や中学校に行けない貧困家庭の子供たちや教育を受けられない勤労青少年のために創立された無料の夜学校でした。1944年、戦雲が広がり閉校に追い込まれるまで、この遠友夜学校は日本でも稀有な夜学校として50年の歴史を刻みました。
 何と、その夜学校でNPO会員の須田力さんの親御さんが、教師として働いていたのだそうです。そのため映画のなかで須田力さんが出演され親御さんのことを語っていらっしゃいました。

 その遠友夜学校の復活を求めるムーブメントが高まり、1990年には札幌遠友塾自主夜間中学が開校し、2022年4月には札幌市立星友館中学(公立夜間中学)が開設されました。こうした活動そして歴史をドキュメンタリーにした映画が「新渡戸稲造の夢」だったのです。ほんとに素晴らしいドキュメンタリー映画をみせてもらい感動いたしました。

和泉さんの上記の映画鑑賞について須田さんにお伺いしたところ、次のような寄稿を頂きました。

 和泉さんがドキュメンタリー映画「新渡戸の夢」を鑑賞されたことを知りました。あの映画では3,4分間でしたが老醜をさらした自分の姿が恥ずかしい反面、新渡戸稲造博士の自由、平等、博愛の心で太平洋の架け橋として平和のために尽力し、遠友夜学校で教育の機会均等を実行された生き方を和泉さんが私たちと共感され、稿を寄せていただくことをありがたく思います。
 父政美が遠友夜学校の教師となったのは、満州事変で国が戦争へ突入していく昭和6年新渡戸稲造が札幌を訪れ、北大で講演し、最後の訪問となった遠友夜学校で教師たち、生徒たちと感動のふれあいを残した翌年の札幌昭和7年でした。昼は農学部農業経営学科の学生で、夜は遠友夜学校の教師でした。母秀子は貧しい家庭で育ったため高等小学校を卒業後中学校へ進学できない身で、昼は北大病院の給仕として働きながら夜は遠友夜学校の生徒として学ぶ機会に恵まれました。秀子の家の事情により遠友夜学校から南に4㎞も離れた藻岩下に引っ越したため夜間通学は不可能となったため、一年間の生徒と教師の間でしたが、二人が結ばれたのは政美が卒業して樺太庁勤務となった一年後と告白してました。
 樺太から満州と4男2女の子どもをかかえた一家は、ソ連参戦、終戦を迎え、日本の不当な支配に積もった恨みを爆発させた現地民の一斉略奪で家財を失いましたが現地に止まって、国の狂った羅針盤によって悲惨な運命を背負わされ変わり果てた姿で満州各地から新京(現在の長春)にたどりついた開拓民の避難生活のサポートし帰国を世話する仕事に従事しながら一年後の1946年9月、帰国しました。この避難生活の中で当時3歳であった私の一歳年上の姉は栄養失調のため死亡し骨箱に収まった姿で日本の地を踏みました。
 父母とも他界して20年以上になりますが、二人とも遠友夜学校で学びあった新渡戸の心を終生大切にし、生きたと思います。遠友夜学校は、軍国主義の濁流に呑み込まれた閉校命令によって昭和19年3月閉校してしまいましたが、80年余経た現在、全国各地で夜間学校を開設して学ぶ機会のなかったひとたちに新渡戸の精神で学ぶ喜びを広げていこうとする動きに目を見張っていることと想像しております。(須田 力)

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